旅日記

2015年5月27日(水)新町→倉賀野→高崎へ 22.5km

 新町駅午前8時20分スタート。新町宿は神流川の渡しを控え、中山道では最も遅く承応2年(1653)にできた宿場だ。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒(1843年資料)があった。だが残念ながら宿場の面影はみられない。道祖神がある弁財天の反対側には「日本スリーデーマーチ発祥の地」の記念碑があった。  きょうは朝から真夏のように日ざしが強い。伊勢島神社近くに国登録有形文化財の大きな屋敷がある。江戸時代の豪農、明治になって生糸で財をなした家という。ぜひ見学したいと呼び鈴をおしたが応答はなかった。  道は狭い立石旧道に入った。このあたりは藤岡市だ。烏川の柳瀬橋まで道は何回も旧道をくねくねして歩く。高崎宿への途中、「岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡」を見学した。陣屋の場所は江戸幕府崩壊後、岩鼻県庁になったが、明治4年(1871)に岩鼻県は廃止され、群馬県が成立し、県庁は高崎城内に移されている。どこでも藩から県へと変わるめまぐるしい時代だ。  やがて例幣使街道追分の常夜灯と道標がみえてきた。道標には「左日光道 右江戸道」とある。日光東照宮に毎年4月、家康の命日の大祭に朝廷からの使いが派遣されていた。例幣使(れいへいし)は京都を出発し中山道の倉賀野から日光へとむかった。日光例幣使の派遣は正保4年(1647)に始まって慶応3年(1867)まで221年間、1回の中止もなく派遣されたという。まさに徳川幕府の威光の象徴ともいえる。  倉賀野宿(高崎市)は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒、宿内人口は2032人(1843年資料)がいた。本陣跡、脇本陣跡碑、高札場跡などがある。宿場の京口周辺の安楽寺には7世紀末頃の古墳がある。また安楽寺には2基の将棋の駒型をした通常の板碑よりも厚い板碑がある。これは珍しい。さらにすすむと左側の小高い丘に4~5世紀頃の浅間山古墳がある。上がってみたが、みた所ではどんな古墳だったかはわからない。  さらに高崎宿へひたすら歩いていく。高崎宿といっても、高崎城の城下町で、本陣、脇本陣もなく旅籠はわずか15軒しかない。高崎城址に寄ってみた。高崎城は慶長3年(1597)に井伊直正が築城したが、水堀や復元された乾ヤグラ、東門が当時の面影を伝えている。  高崎城址近くに三代将軍家光の弟・忠長の墓所がある大信寺に寄ってみた。忠長(幼名国松)は2代将軍秀忠の三男。55万石の駿府城の藩主になったが、兄・家光(幼名竹千代)との確執から高崎城に幽閉され、寛永10年(1633)12月、28歳で自刃(じじん)した。この自刃した部屋が長松寺にある。江戸中期(1730年ごろ)、高崎城の改築に伴い建物の一部をこの寺に移築した。住職さんに「自刃の間」を案内され説明をうけた。  この長松寺境内の説明板に「子守学校/お守第一・学問第二」というかすれた文字と昼寝中の幼児と勉強中の授業風景の写真が目にとまった。写真をみて、明治生まれの母が赤ん坊を背負って尋常小学校にいったという話を思い出した。明治、大正、昭和初期の時代は、家事の手伝いや子守り奉公は多くあったにちがいない。この「子守学校」は1944年までつづいたという。  きょうは朝からぐんぐん気温が上がり、まだ5月というのに高崎市は32度の真夏日になった。市内で一泊して、あすは長松寺から安中宿をめざして歩くことになる。

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