旅日記

2015年5月28日(木)高崎→板鼻→安中へ 25.8km

 朝7時半、君が代橋を渡り板鼻宿めざして歩く。平安末期創建の若宮八幡宮にまずはきょうの旅の安全を祈願する。近くに皇女和宮が休息した「上豊岡の茶屋本陣」があったが、9時半開館まで時間がありパスすることにした。  やがて国道18号沿いに群馬県下唯一現存の「藤塚の一里塚」(江戸から28里目)がみえてきた。塚には樹齢200年以上のエノキがある。碓氷川にそって土手を歩く。やがて八幡宮の赤い大きな鳥居がみえてきた。鳥居から約700m歩くとこんもりとした八幡宮の社殿がある。参拝した後、板鼻橋近くで「双体道祖神」が目にとまった。寛政4年(1792)のもので祝言形(夫婦和合)になっている。仲良くお酒をくみかわしている姿だ。こんなにほほえましい道祖神ははじめてみた。この後も同様の道祖神がいくつかあった。  板鼻宿の江戸口についた。安中市板鼻公民館に皇女和宮が宿泊した本陣跡がある。公民館裏にある旧本陣書院を見学した。この書院で和宮が第14代将軍家茂へ輿入れのため、京都から江戸へむかう途中、文久元年(1861)11月10日に一夜を過ごした。書院には本陣の間取り、和宮の草履、調理に使用したまな板、畳下の隠れ穴などがある。  仁孝天皇の娘、孝明天皇の妹の和宮はまだ15歳、公武合体論のなかの政略結婚だ。行列は京都方約1万人、江戸方約1万5千人、京都からの通し人足約4千人という中山道開設以来の未曾有の大行列だったという。これだけの大行列を迎えるため、公儀からこまかな通達があり、各宿場は大変な負担労苦があったにちがいない。まさに幕末の内憂外患時の幕府の大デモンストレーションといえる。  板鼻宿から安中宿は近い。碓氷川を渡ると安中城鬼門の守護神、安中藩の総鎮守の熊野神社社殿がある。境内には樹齢千年といわれる大ケヤキ、落雷により三分の二が崩れ落ち、残りは北東に傾いてしまい鉄柱で支え補強されている。  近くの「旧碓氷郡役所」の建物で「新島襄・八重子展」を見学。隣に安中教会がある。教会の敷地内に幼稚園があり見学はできなかった。このあたりは安中城址があった所だ。安中藩は江戸防衛のかなめである碓氷の関所を守る任務をもっていた。安中藩は3万石の小藩で、資料によると家臣団は約240人、そのうち安中に約140人、江戸の藩邸に100人ほどがいたという。  復元された幕末の郡奉行役宅を見学した。郡奉行は「領内の村方の警察権や裁判権を有した役職で、配下に代官を置き、領内の農民の統治を担っていた」という。玄関のある公的な間、さらに奉行の私生活の間が三部屋ある。とても質素な建物だ。安中城址のパノラマもあったが、かやぶき平屋建ての御殿が本丸だった。お城というより館に近い。  ぼくが驚いたのは復元された「武家長屋」だ。江戸東京博物館には江戸庶民の長屋住まいの狭い部屋が展示されている。この一間よりは広いが、武家長屋はとても質素な間取り(10畳二間、縁側、台所、便所)で4軒分ある。資料によると「藩士の大多数はこのような長屋住まいで、独立した家屋に住めるのは一部の上級武士だけでした。この長屋に居住していた藩士は中位の身分の者たちでした」と。  安中藩の江戸屋敷で天保14年(1843)に生まれた新島襄旧宅を訪ねた。新島襄はキリスト教の伝道や同志社大学の創立者などで知られている。旧宅を後にして、中山道を歩くと安中原市の杉並木がみえてきた。幕末の頃には700本以上の杉並木があったというが、いまはわずかしか残っていない。だいぶ日が暮れてきた。中山道から数キロ離れているJR磯部駅へむかった。次回はここから松井田宿、坂本宿をめざして歩く。

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