旅日記

2015年6月18日(木)望月→芦田→長久保へ 15.2km

 朝8時前に宿を出発。雨もようのどんよりした天気だ。望月歴史民俗資料館はまだ開いていないが、門をくぐると庭は見学できた。ここにも双体道祖神がおかれていた。望月宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒の小さな宿場だ。大森本陣跡、旅籠大和屋などがあり落ちついたふんいきがある。  旧道を歩くと、やがて「茂田井入口」にやってきた。望月宿と芦田宿の中間にあり茂田井(もたい)間の宿とよばれる地域だ。坂を下ると左側には連子格子の家、右側には白壁の大きな家がみえてきた。明治元年創業の武重本家酒造、元禄2年(1689)創業の大澤酒造がつづいている。  大澤酒造内にある「しなの山林美術館」を見学した。酒屋と美術はどんな関係かと思ったが、故大澤邦雄氏(第一美術協会会長)の生家に作品を集めたという。また隣の建物には酒徳利、携帯用重箱、170年間用いた大澤家主人の箱前、高札場に掲げられた覚「攘夷禁止の高札」(太政官・慶応4年3月)などが展示されていた。  石割坂を上って芦田宿(立科町)に入ってきた。芦田宿は望月宿とほぼ同じ規模の宿場だ。帰りのバスの便を知るために立科町役場に寄った。これから先歩いても、本数の少ない帰宅のバス便を知らないと心細くなるからだ。役場では親切に教えていただいた。  しばらく歩くと、土屋本陣跡がみえてきた。土屋家は江戸幕府の宿場制度より4年早い慶長2年(1597)から明治初期まで代々本陣職を務めた。寛政12年(1800)に改築された本陣には、上段の間があり、大名、公家などが宿泊や休息に使った。屋敷内に入ると、立派な庭、切り妻造りの建物がある。また近くには文化元年(1804)からいまも旅館を営む金丸土屋、味噌醤油の醸造元などがある。  やがて「笠取峠松並木」の標識がみえてきた。約1キロつづく松並木は幕末の頃は600本近くあったというが、いまや老松は70本ぐらいしか残っていないという。日本橋から中山道の松並木らしいのはここがはじめてだ。  松並木をすぎると道は国道に合流した。道は上り坂になっている。途中、右側に笠取峠の一里塚(日本橋より47里目)がある。この一里塚には赤松が植えられている。この一里塚の前に手を握る双体道祖神があった。坂は下りになり長和町の看板がみえてきた。  中山道は国道をはなれ、旧国道や草道を歩く。やがて小さな五十鈴川にでた。もう長久保宿に入ってきた。松尾神社をすぎると、連子格子の家もある静かな町並みがみえてきた。         長久保宿歴史資料館に寄った。この資料館は、明治時代の初期に旅籠として建てられたが、交通量が減って開業に至らなかったという建物を利用している。120坪ほどの建物だが、1階より2階部分が突き出ている特徴ある造りだ。芦田宿でもみた「あの造りは?」と疑問に思っていたが、山間部の旅籠建築に多くみられる「出ゲタ造り」の手法だ、と案内板に書かれていた。  石合本陣跡を見学していると、車が止まり「どちらからですか」と声をかけてきた女性がいた。「所沢からです。日本橋から歩いています」としばらく会話がつづく。この長久保宿には、「山石屋」「松の屋」「大菱屋」「太田屋」などの屋号札が家々にかけられている。江戸時代の町屋造りの竹内家住宅、脇本陣跡などを見学した。  時計をみるとまだ午後3時半。JR上田駅行のバスは午後5時10分発。和田宿にいくのには中途半端な時間だ。付近をぶらりして、長久保のバス停で時間をつぶす。次回は中山道で最大の難所・和田峠をとおって下諏訪をめざすことになる。

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