旅日記

2015年7月21(火)藪原→宮ノ越→福島へ 19.2km

 藪原駅から木曽川にそって歩きはじめる。何キロも国道や細道を歩くと山吹トンネルに到着。トンネルを抜けるとやがて「義仲館案内板」がみえてきた。  巴橋を渡ると静かな集落がある。「松坂屋」「茶屋」「まるや」「長寿屋」などの屋号札が掲げられている。山吹山の山腹に「木」の文字がみえる。集落の人にお聞きすると、8月中旬に京都の「大」文字と同じ「木」の火文字をつくるという。  義仲館に寄ってみたが、残念ながら休館日。木曽義仲が建立した近くの徳音寺を訪ねた。木曽義仲、巴御前、木曽一族の墓がある。ここ宮ノ越宿(木曽町)は明治16年(1883)の大火で宿並は全焼してしまった。本陣跡、脇本陣跡などはあるが宿場のふんいきはない。大火後に再建された「旧旅籠田中屋」が公開されていたので見学をした。  宮ノ越一里塚碑の「案内板」(平成27年3月記)は日義中学校の3年生が書いている。歴史で中山道の一里塚のことを学んだのだろう。この種の案内板は地元の教育委員会が説明しているが、生徒の説明書きもいいことだ。  県道をひたすら歩いていくと「中山道中間点」の標識がある。ここが江戸、京都双方から67里28町(約266km)に位置しているという。中山道ひとり旅は、19日目で半分の距離を越えたことになる。きょうはとても暑い。帽子を脱ぐと、額から汗が流れだした。休憩のために立ち寄った近くの「道の駅」にも「中山道中間点碑」があった。  ふたたび旧道に戻る。「中山道」の矢印で細道を下りると川にでた。狭い鉄橋で下は鉄網になって急流がみえるので足がすくむ。薬師堂をとおって出尻の一里塚碑にでた。  国道19号に合流すると、左側に「経塚」がある。案内板にこの経塚は、初代の木曽代官山村良侯が慶長年中に全国の霊場をまわって大乗経を納め、記念として塚を築いた。年を経ると知る人もいなくなったので、五代の山村良忠が曾祖父の百年忌に建立(元禄14年11月)したと書かれている。  やがて冠木門から左坂に上がると国史跡の福島関所跡(木曽町)がある。この関所は、東海道の箱根、新居、中山道の碓氷とともに四大関所といわれた。復元された福島関所資料館には、女手形、長荷物手形、火縄銃、関所高札、関所パノラマ、参勤交代の大名の名前などが展示されている。  いろいろな手形があるが、興味深い手形もあった。それは「嫁入り女福島関所通行手形」。説明によると「福島関所をへだてた村々からの嫁入りには、関所の通行手形(通行許可書)が必要だった。これは荻原村(現上松町)の女が宮ノ越村(現日義村)へ嫁入りしたときの手形。嫁の実家方の庄屋の証明印に親が加判し、さらに嫁入り先の庄屋、問屋と呼び主の証明印が裏書され、届けられてはじめて通用した」という。  隣村同士の結婚でも関所があると本当にややこしい。とくに関所は「入り鉄砲に出女」には監視の目はきびしくした。福島在住の女性が日帰りで通行するために木製の「日帰手形」もあった。しかし、関所といえどもなじみの女性の顔パスもあったかも知れない。  福島関所の隣に高瀬家資料館がある。高瀬家14代目に島崎藤村の姉・園が嫁ぎ、島崎藤村の小説『家』の「お種」として知られている。また姉・園は『夜明け前』の「お粂」で登場している。高瀬家は木曽代官に仕えていた旧家だ。漢方薬の「奇應丸」など製造販売をしていたが、昭和2年の福島大火で類焼し、現在の家になっている。いまも家族が生活している。声をかけると、ていねいに資料館などを案内していただいた。  資料館には、木曽代官に仕えた13代高瀬新助の肖像画などがある。この人は維新の時に暗殺された。歴史小説『夜明け前』の植松昌介である。高瀬家に資金援助を願う島崎藤村の手紙などが展示されている。お父さんを1カ月前に亡くしたという娘さんは、わざわざ前庭の隅にある土蔵をあけて漢方薬に使った熊の毛皮をみせてくれた。  木曽福島駅で列車に乗る時刻が迫ってきた。山村代官屋敷跡などはまだみていない。次回も2泊3日で、残された福島宿(木曽町)からスタートし、上松、須原、野尻などの木曽路を歩く予定だ。

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