旅日記

2015年9月30日(水)武佐→守山へ 22.5km

 昨夕急ぎ足でかけぬけた武佐宿を逆戻りして歩く。武佐郵便局前には明治時代の書状集箱(郵便ポスト)が復元されている。大きな役人宅大橋家、本陣跡には門が残されている。
 踏切を渡り、やがて道は「住蓮坊首洗い池」についた。住蓮坊とは鎌倉時代前期の僧侶で法然上人の弟子。後鳥羽上皇の二人の女官が法然の教えに帰依し、上皇の怒りにふれ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮坊はこの地で処刑されたという。
 近くには国指定の八幡社がある。織田信長の兵火に焼失したが、文禄5年(1596)に再建された。また沿道には風景にマッチする茅葺屋根の家が数軒ある。しばらく歩くと「横関川渡し場跡」に通じる道がある。平常時、旅人は日野川(横関川)を船で渡り、水量が減ると二艘の船で舟橋をつくり渡っていたという。渡し場跡がみえるので、川へ下りてみようと思ったが、道が草に覆われていてわからずやめた。それほど広くはない川だ。
 横関橋を渡り土手道を歩く。土手には真っ赤な彼岸花が咲き、左下の田んぼは稲刈りが終わっている。やがて国道8号に合流、西横関信号脇に「是よりいせみち、みなくち道」の道標がある。すぐ旧道に入ると「鏡の宿」(竜王町)になる。鏡は東山道時代からあった宿場。江戸時代になると武佐宿と守山宿が約14キロあるため間の宿になっていた。
 静かな町並みだ。このあたりにもベンガラ塗りの家がある。旅籠「京屋跡」「吉野屋跡」などの表示板がある。地元の「鏡の里保存会」が設置したものだ。ふたたび国道に合流する。この通りには、「源義経宿泊の館跡碑」、本陣跡などがある。
 同じ通りに鏡神社がある。創立は古代にさかのぼると伝えられているが、現在の本殿(国指定重要文化財)は室町中期に建てられたものだ。「源義経元服の地」という旗が立てられている。平家の追手が牛若丸を探していると聞き、義経は元服を決意し、鏡神社で源氏の再興と武運長久を祈願したという。
 しばらく歩くと「平家終焉の地」(平宗盛・清宗親子の胴塚)の看板がある。リサイクルセンター脇のトタン塀の小道に沿っていくと小さな供養塔と碑がある。壇ノ浦合戦で平家一門は滅ぼされたが、大将の平宗盛・清盛親子は捕えられ鎌倉へ送られた。だが親子は鎌倉から京への道、この近江篠原の地で斬首され、首は京へ運ばれたという。
 なんともわびしい場所と塚だ。ふ-と『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし‥‥」が脳裏に浮かんだ。
 ここから数キロ歩くと新幹線近くに「甲山(かぶとやま)古墳」がある。階段を上ると6世紀前半の円墳があった。解説板には「直径約30m、高さ10mの規模をもち、内部には西に開口する横穴式石室がある。‥‥発掘調査によって装身具、鉄製の武具、馬具などが出土した」とある。うれしいことに円墳の中に入れて、石室がみられる。一体どんな人の墳墓であろうか?
 静かな町並みを歩くと、きれいな茅葺屋根の大きな建物がある。慶長年間創業という古い蔵元(暁酒造)だが、看板がみあたらない。野洲小学校近くに「背くらべ地蔵」がある。左が阿弥陀如来像、右の低いのが背くらべ地蔵だ。石仏二体は鎌倉時代のものといわれるが、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべさせたという。
 やがて野洲川がみえてきた。この川も愛知川と同じように鈴鹿山脈に源を発し、琵琶湖に流れていく。もうすぐ守山宿(守山市)だ。石部道道標がある。一面に「すぐいしべみち」、片面に「高野郷新善光寺道」と刻まれている。
 すぐ近くに宇野家酒造跡がある。元総理の宇野宗佑の実家だ。いまは町屋「うの家」として、展示室、ギャラリー、飲食店などに整備されている。「中山道街道文化交流館」にも寄ってみた。二階には広重・英泉の名所絵「木曽街道六十九次」などが展示されている。守山宿は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠36軒(1843年資料)があった。いまでは宿の面影は少ない。
 守山宿は「京立ち守山泊まり」といわれ、江戸にいく旅人の最初の宿泊地になった。この間の距離は8里6町(約32km)になる。次回はこの守山から東海道と合流する草津、大津、ゴールの三条大橋を歩く予定だ。

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