旅日記

2015年5月22日(金)深谷→本庄→新町 21.7km

 昨日の倉庫群近くの中山道からスタート。岡部藩陣屋の長屋門をみたのち、豊見坂に幕末の万延元年(1860)庚申の年に有志13人によって建立された「百庚申」を見学。もともとこの場所には享保元年(1716)建立の庚申塔があって、二十二夜塔、馬頭観音の石碑が立っていた。  万延元年は大老井伊直弼が暗殺され、黒船来航によって世の中が騒然としていた。鎖国の夢が破られ、生活も不安になり、神仏に頼ろうとしたのか、無数の庚申塔が建立されている。ご近所の人にいくつぐらいあるのでしょうか、と聞いても数えたことがないという。  土手道を歩くと滝岡橋(長さ147m・昭和3年竣工)がみえてきた。もう本庄市に入っている。二十二夜塔、石仏石塔群、長屋門などをみながら静かな街道を何キロもひたすら歩く。やがて本庄宿の近くにやってきた。まず本庄城跡を訪ねた。この城は弘治2年(1556)に築城されたが、本庄実忠は小田原北条氏につき、あえなく落城。慶長17年(1612)には廃城となっている。城跡には稲荷神社があり社殿前には、築城のときに植えられたという埼玉県指定の大ケヤキがそびえたっている。  本庄宿は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒、人口は4554人(1843年資料)がいて、人口は中山道で最大だったという。いま本庄駅入口周辺のかつての宿場の本陣などは跡形もない。  本庄市立歴史民俗資料館に寄ってみた。資料館前には、田村本陣の門が移築されている。この資料館の建物は、明治16年(1883)建築の旧本庄警察署を活用している。2階のベランダはコリント式の列柱になっている。係からくわしく本庄宿の説明をうけた。  やがて金鑚(かなさな)神社の大クスノキがみえてきた。むずかしい神社の読み方だ。この神社は6世紀の創立といわれ、武蔵七党のひとつ児玉党の氏神だった。本殿は享保9年(1724)の再建という。クスノキは樹齢300年以上と推定されている。  さらに歩くと左側に古墳の上にある浅間神社がある。このあたりは上里町に入っている。上里町は埼玉県北にある。このあたりの路傍には多くの庚申塔がある。黄色みかかった自然石の庚申塔もある。途中の加美公民館で上里ガイドマップなどを手にいれた。ここでお茶をいただきしばし雑談した。やがて神流川橋がみえてきた。この橋を渡ると群馬県に入る。  この武蔵・上野国境の神流川近くで織田信長が本能寺に倒れた直後の天正10年(1582)6月18~19日に神流川合戦(別名金窪原の戦い)が行われている。織田軍と北条軍の戦いで、織田の滝川軍は北条軍に敗退した。この神流川には渡し場があり、橋のたもとに「復元見透燈籠」が建てられている。また神流川古戦場の碑もある。  やがてJR新町駅入口がみえてきた。新町宿(高崎市)があった所だ。次回はこの新町から倉賀野、高崎へと歩く予定だ。

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