旅日記

2015年5月21日(木)熊谷→深谷へ 27.5km

 熊谷駅7時40分スタート。熊谷は1945年8月15日敗戦前夜、米軍の大空襲で市内のほとんどが焼失した。そのため道路は区画整理されて広い。まず国道17号近くの平安時代に由来する高城神社にお参りした。この神社には天保12年(1841)に建てられた珍しい青銅製の常夜灯(275cm)がある。  熊谷宿は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒(1843年資料)あったが、空襲などで焼失し、宿場の面影はまったくない。八木橋デパート前には大きな温度計「あついぞ!熊谷」がおかれていた。  数キロ歩くと「新島の一里塚」がある。この塚にはエノキではなくケヤキの大木がある。近くに忍藩の石標「従是南忍領」が建てられている。忍藩10万石(忍城は行田市)と他藩との境界を明らかにしたものだ。周囲はときどき麦畑がある。やがて長い参道の熊野大神社(天正年間創建)がみえてきた。ここはすでに深谷市に入っている。  深谷第一高校前に「見返りの松」の碑がある。深谷宿に泊まった旅人がふり返って、遊女と別れを惜しんだという松がある。松は枯れていまは二代目になっている。すぐ近くに深谷宿の常夜灯(江戸口)がみえてきた。深谷宿は本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒があった。ここ深谷宿の旅籠では多くの飯盛女を抱えていた。  飯島本陣跡の案内板に「(年間)泊り10件、休憩40件ほどでまことに少なく、為に本陣職の大半は他に主たる職業をもっていた。飯島家は宝暦2年より明治3年まで6代にわたって本陣職を務めた」とある。この件数では本陣経営は苦しいはずだ。  となりに「旧七ツ梅酒造」がある。元禄時代に創業した蔵元だったが2004年に廃業した。950坪の跡地には母屋、店蔵、精米蔵などがある。また深谷シネマ、古書店、ギャラリーなどがある。ここの「お茶々」でお茶をごちそうになった。  深谷を歩いていると、よく「二十二夜塔」をみかける。このあたりに多い石仏石塔群にも「二十二夜塔」がある。さてさて「二十二夜」とはなんだろうか。調べてみると、特定の月齢の夜に「講中」とよばれる仲間が集まり、飲食をともにして、無病息災、家内安全などを祈願したという宗教行事。二十二夜塔は荒川水系に多くみられるという。  寄り道して、「岡部六弥太忠澄の墓」を見学した。岡部は源義朝の家人で、頼朝の挙兵とともに木曽義仲を追討し、さらに平氏を討ったという。鎌倉時代の五輪塔が6基並んでいるが、中央の大きなのが六弥太の墓。この墓石の粉を煎じて飲むと、子のない人には子ができ、乳がでない人には乳がという迷信が広がり、六弥太の五輪塔は削られている。  午後6時をすぎても陽はまだ明るい。道の駅おかべ近くの「中宿古代倉庫群跡」を訪ねてみた。この跡は7~8世紀の奈良時代に建てられた高床倉庫群があった所だ。大きなものは床面積56㎡もあった。この遺跡周辺には武蔵国の役所があったと発掘から推測されるという。跡地には立派な高床倉庫が2棟復元されている。ここ中山道から1km以上離れたJR岡部駅(深谷市)から帰宅した。

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