旅日記

2015年8月12日(水)妻籠→馬籠→落合→中津川へ 21.7km

 昨日の橋場から午前8時半スタート。妻籠(つまご)から馬籠(まごめ)までは坂道を上っていくことになる。やがて大妻籠がみえてきた。ここには旧旅籠の「近江屋」「まるや」「つたむらや」が連なり、いまは旅館になっている。中山道からちょっと離れている藤原家住宅を訪ねた。藤原家住宅は17世紀後期の木曽地方の古い農家。台所、囲炉裏などがある。板屋根には無数の石がおかれていた。  もどってさらに坂道を上っていくと、小さな観音像が目についた。説明版には「牛頭観音」とあり、急な坂道を重い荷物を運ぶ黒牛の供養塔とある。中山道に祀られた唯一の石仏だという。「男滝・女滝」の矢印があるので寄ってみた。この滝は街道の名所として旅人の憩いの場であった。男滝の流れは勢いが、女滝の流れは弱い。  木橋を渡り、ふたたび坂道へ。熊よけ鈴がおかれている。いい音色だ。樹齢300年、高さ41mの「さわら」の大樹がある。「この木一本で約300個の風呂桶を作ることができる」と書かれていた。杉木立をすぎると白木改番所跡がある。木曽から移出される木材を取り締まる場所で、許可を示す刻印が焼いてあるかどうかを調べるほど厳重だったという。尾張藩にとっては木曽の美林は「宝の山」だった。  近くの江戸時代の建物「一石茶屋」で休憩。無料のお茶サービスがあり、ここにも外国人観光客がいた。聞くとイタリア人のお二人だ。ぼくが東京・日本橋から中山道を歩いているというと、「あなたは私のお母さんと同じ年齢ね。とても若いわね」とはKATIAさん。やがて馬籠峠(標高801m)についた。  もうすぐ馬籠宿だ。高札場の隣にある「中山道馬籠宿碑」には「京江五十二里半・江戸江八十里半」とある。馬籠宿はたびたびの大火に見舞われている。明治28年、大正4年にも大火があった。古い家並みに石畳はあるが、多くは復元されたものだ。馬籠宿といえば島崎藤村『夜明け前』の舞台だ。脇本陣史料館、藤村記念館を見学した。ちなみにいまの馬籠は2005年2月の越境合併で長野県山口村から岐阜県中津川市に編入された。  馬籠の下り坂の枡形(ますがた)をすぎると、人の流れはピタッと止まる。馬籠城址をへて中山道を歩いていくと、ひさしぶりに双体道祖神をみつけた。「桑の実の木曽路出づれば穂麦かな」という正岡子規の句碑がある。ここから眺める景色は、はるかかなたに山々、手前には水田など、とても美しい。地元の要請によって揮毫(きごう)した島崎藤村の「是より北 木曽路」の碑がある。  さらに坂を下ると、両塚を残している「新茶屋の一里塚」がある。この一里塚は天保から安政時代には江戸より右に松、左にはなかったが、いまは整備してエノキが植えてある。このあたりから落合の石畳が約800mつづく。十曲峠を越えると、本尊が「薬師如来」の医王寺がみえてきた。  落合川を渡ると、上町の秋葉山常夜灯がある。この常夜灯は寛政4年(1792)に建てられている。ここはもう落合宿(中津川市)だ。立派な門構えの井口家本陣跡がある。落合宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒の小さな宿場だった。町の長さは約390mしかない。落合宿にくると平地にやってきたという印象だ。  与坂からは木曽山脈の最南端の恵那山(標高2191m)がみえる。御嶽神社をすぎると、大きな枝垂れ桜の木がみえてきた。この桜の下には、元禄7年(1694)の庚申塔や地蔵、観音像等が数多く祀られている。上金地区ではかわいい最近の双体道祖神があった。  近くに木曽から伐採した材木を監視する「尾州白木改番所跡」の碑がある。案内板によると「この地にあった番所は、天明2年(1782)に建てられ、明治4年(1871)に廃止された。白木とはひのきなど木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用した。尾張藩は領外の搬出を厳しく取り締まった」。  中津川駅に近い中山道沿いにある宿に到着した。すでに午後6時半をすぎた。今晩は中津川河畔で花火大会がある。ゆかた姿の女性、家族づれなどが会場にむかって歩いていく。わが家から近くの「西武ゆうえんち」の花火がよくみえる。8月は何回もあるので大音響の花火大会にいささか食傷ぎみだ。

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