旅日記

2015年9月17日(木)赤坂→垂井→関ケ原へ 18.5km

 朝からいやな雨になってきた。赤坂駅でポンチョと傘で雨対策だ。昨日もみたが中山道に面した矢橋家住宅(非公開)は国登録有形文化財になっている。母屋は天保時代の建物で、江戸末期の大型町屋。それにしても広い屋敷だ。京口の「御使者場跡」の隣は、関ケ原合戦で戦死した東軍・中村隊の武将のかぶとを埋めたといわれる「兜塚」がある。
 近くに「昼飯(ひるい)大塚古墳」があるので訪ねてみた。この古墳は4世紀末に造られた岐阜県最大の前方後円墳という。発掘調査の後、一部を復元ゾーンにして階段で上がれるようになっている。こんな大きな墳墓の被葬者は一体だれだろうか。以前、行田市の埼玉古墳群を訪ねたことがある。「さきたま」には大型古墳が9基もある。16世紀前の為政者、庶民はどんな暮らしをしていたのだろうか。
 雨は本降りになってきた。靴から靴下までが濡れてきた。義経が源氏再興の祈願をした旧圓興寺跡、照手姫伝説碑などは、雨で簡単にみるだけだ。教覚寺あたりから垂井宿への道がわからない。道を尋ねようとしても、雨で通りに人はいない。近くの人家の呼び鈴をおして道順がわかった。家人は「こんな雨のなか歩いているのですか!」とビックリ顔。
 やっと追分道標(中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点)がみえてきた。相川の橋を渡ると垂井宿(垂井町)だ。昔はこの相川には橋はなく、人足渡しで、増水のときは川留めになった。江戸から57番目の垂井宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒(1843年資料)があった。
 曲り角に「旅籠亀丸屋」がある。安永6年(1777)からの旅籠屋だが、いまでも営業している。2014年12月17日、東海道赤坂宿を歩いたとき、1649年創業の旅籠大橋屋を訪ねたことがある。この大橋屋が今年3月15日閉館したというニュースを耳にした。残念だが、360年以上の歴史に幕を閉じてしまった。ちなみに岐阜県ではもう一軒、江戸時代から営業している旅籠屋があるという。
 雨宮大社の石鳥居をくぐると、「垂井の泉」がある。大ケヤキの根もとから湧き出る清水は旅人の喉を潤したという。泉にいくと、樹齢800年というケヤキが倒れている。枝には葉がついている。ご近所の人に聞くと「大ケヤキは今月11日の未明、泉に覆いかぶさるように倒れてしまった。すでに幹のなかは空洞になっていた」という。
 垂井は旧旅籠長浜屋、小林家住宅など宿場のふんいきを残している。本龍寺には松尾芭蕉が元禄4年(1691)冬に滞在している。西見附跡をすぎると、やがて112里目の国史跡・垂井一里塚がある。南側だけが原形をとどめている。
 さらに歩くと、「しゃもじ塚・平安時代の豪族 平忠常の墓(1031年)」の標識があった。JR踏切にそっていくと、その墓はあった。京に護送中、病に倒れ、しゃもじを口に入れたまま息絶えたという。解説もないので、古い墓ぐらいで終わってしまう。松並木がみえてきた。東海道ではよくみかけたが、中山道の松並木らしいのは、笠取峠松並木(長久保宿)以来の2回目だ。
 いよいよ関ケ原が近い。中山道から左側の桃配山に「徳川家康最初の陣地」があった。寄り道してJR関ケ原駅脇の橋を渡ると、左側に「東首塚」がある。この塚は関ケ原の戦い直後に家康によって首実検された将士の首が眠っている。同じ敷地には「首洗いの古井戸」がある。
 近くに「関ケ原町歴史民俗資料館」があるので寄ってみた。資料館前には道路整備のために撤去された昔の「道標」がある。資料館1階には「関ケ原合戦図屏風」、火縄銃、具足など、2階には中山道関ケ原宿の資料が展示されている。東軍の大将は家康、西軍は石田三成だ。合戦当日の両軍の動きは館内ビデオでも紹介されている。
 資料館前には「徳川家康最後の陣地」がある。ここで家康は陣頭指揮にあたるとともに、部下が討ちとってきた首の実検をしている。やっと雨がやんできた。駅から大垣市内の宿へむかう。

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