2015年9月18日(金)関ケ原→今須→柏原→醒井へ 19.3km
関ケ原駅7時20分スタート。きのうと違って晴れてとても気持ちがいい。天下分け目の「関ケ原合戦」で有名な関ケ原町の人口は約7千人、過疎の町になっている。関ケ原宿は美濃16宿のなかで加納宿につぐ大きさだったが、いまは宿場のふんいきはない。
脇本陣跡などをすぎると、「西首塚」がある。この合戦でどのくらいの死者がでたかは知らないが、この塚には千手観音や馬頭観音があり、地元の人によって供養されている。春日神社には樹齢800年余の大杉があり、この地に東軍の福島正則の陣があった。しばらく歩くと、関ケ原合戦より900年余前の「不破関跡」がある。美濃不破関とは「壬申の乱」(672年)以後に設けられた奈良・平安時代の古い関所のひとつだ。
やがて坂を下りていくと、線路を越えた山地に西軍の大谷吉嗣陣跡と松尾山眺望地がある。正面1.5キロ先の松尾山にはやはり西軍の小早川秀秋がいた。徳川家康に寝返った秀秋が吉嗣を攻め、ついに吉嗣は自刃した。この戦は、不利だった東軍の家康に優勢となり天下を掌握することができた。いまでも損得勘定なしの吉嗣ファンは多いという。
静かな山中地区を歩いていると、「お茶でも飲んでいかないか」と声をかけられ、お菓子もいただいて、しばしの雑談。
黒血川(壬申の乱で、ここ山中の地で激戦があり、兵士の血が川底の岩石に黒く染まったという)をすぎると、「常盤御前の墓」がある。東国に走った牛若丸(義経)の行方を案じて、この地で常盤は土賊に襲われ息を引き取ったという。この地域の歴史の長さに目がまわる。今須峠を越えると今須宿(関ケ原町)だ。関ケ原宿からわずか一里。いまの今須は宿場のふんいきはない。問屋場だった家、大きな灯籠が目につくぐらい。
やがて道は美濃と近江の国境についた。手前の芭蕉碑には「正月も美濃と近江や閏月」とある。小さな水路の左右には岐阜県、滋賀県とある。岐阜県側の一軒家の前に車いすの女性がいた。「スーパーもなくなり、肉類は垂井まで買いにいくしかないわね」と。昔、国境の両側には旅籠が何軒かあって「寝物語の里」といわれた地域だ。
滋賀県側の長久寺集落の案内板に「ベンガラの東端」という説明がある。ベンガラとは木造建築の柱など木造部分を朱色に塗る顔料の慣用名。赤い色を塗った家は柏原から長久寺までが圧倒的に多いという。確かに意識して住宅をみると朱色を塗った家が多い。
しばらく歩くと道の両側に大きな楓(かえで)の木がめだってきた。幾十本も並んでいる。松並木や杉並木は何回もみたが、楓並木ははじめてみた。楓の紅葉季節になると、この通りは美しいにちがいない。
やがて柏原宿東見附の案内板がみえてきた。問屋場跡もある。問屋場は公用の旅人・荷物と幕府の書状の運送などを継立(駅伝方式)していたが、柏原宿で6軒の問屋場があったという。
江戸から60番目の柏原宿(米原市)は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠22軒(1843年資料)があった。江戸時代は、ヨモギを原料とした「もぐさ」が名物であった。寛文元年(1661)創業の「もぐさ屋」の亀屋左京商店はいまでもある。古いお店のなかをながめながら、記念に「もぐさ」を買った。重厚な屋根をもつ柏原宿歴史館に寄った。大正時代建築の館内には、江戸時代の書留記録、浮世絵の中山道などが展示されている。大小の福助がひな壇に飾られている。
町並みにでると「西の荷蔵跡」の案内板が目についた。それによると「運送荷物の東西隣宿への継立(駅伝運送)が、当日処理できない場合、荷物は蔵に預かった。蔵は藩年貢米集荷の郷蔵でもあった」。寺院も多いので、寺院は荷蔵や宿屋に利用されたという。
柏原宿から一里半の醒井宿(さめがい)にむかう。柏原と同じく醒井に入ると、ベンガラ塗りの家がある。清水が湧き出る加茂神社の階段を上った。高台から醒井の町並みがみえる。下りてふたたび歩くと、道の左側にきれいな小川が流れている。この川(地蔵川)は「ハリヨ」(淡水魚)の生息地で滋賀県の保護区になっている。ハリヨは湧き水の豊かな特定の水域にしかいないという。
すでに午後5時半をすぎてしまった。帰宅のためJR醒ケ井駅にむかう。次回はここから番場、鳥居本、高宮などを歩く予定だ。
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