旅日記

2015年10月14日(水)守山→草津→大津へ 18.2km

 きょうから1泊2日で京都・三条大橋をめざして歩くことになる。江戸時代の『五駅便覧』によると、中山道最終67番目の宿場は守山宿となる。中山道は草津で東海道と合流するが、浮世 絵でも「中山道69次」ともいわれるので、ゴールは京三条が一般の人々の意識であろう。
 守山宿は前回のつづきだ。まず仁王門がある東門院を訪ねた。8世紀の延暦年間の創建といわれ、「比叡山の東門」と位置付けられている。江戸時代には朝鮮通信使一行の宿所になっている。境内には鎌倉時代の「石造五重塔」などがある。住職さんが「どちらからですか」と声をかけてきた。「所沢からです。いま中山道を歩いています」と会話は始まった。「過去帳やお寺の経営まで」話がはずんだ。
 守山宿の西口にでると「今宿一里塚」がある。滋賀県で唯一現存する一里塚(南塚のみ)で、江戸から128里目になる。近くに「住蓮坊母公墓」の標石があった。武佐宿で「住蓮坊首洗い池」で住蓮坊についてふれたが、母が京から息子に会いたいとここまで来たが、すでに斬首されたと聞き、近くの池に身を投げたという。
 大宝神社などに寄って、さらに草津への道を歩くと「伊砂砂(いささ)神社」がある。応仁2年(1466)建立の本殿は小規模な一間社だ。ガイド本には、中山道最後の129里目の一里塚が近くの道路の中央分離帯にあるというが、みあたらない。もう草津川ずい道(トンネル)が間近だ。トンネルをくぐれば「追分道標」はすぐだが、あえて手前で、天井川の旧草津川を渡ることにした。ちなみにトンネルは明治19年(1886)に完成した。
 旧草津川の狭い橋を渡り、土手道を下りると「追分道標」がある。道標には「右東海道いせみち 左中仙道美のぢ」とある。ここが中山道の起点・終点でもある。中山道は日本橋から草津までは129里10町(約508km)ある。さらに京三条大橋までだと135里22町(約535km)となる。東海道は日本橋から京都まで約496kmなので、中山道は約40km長い道になる。だが、道路は時代とともに変わるので、あくまでも距離は目安として考えたい。
 草津からの道は今年(2015年)1月末、「寄り道・東海道」で歩いているのでできるだけ重複は避けたい。ただ、今回の旅で「新発見」がある。たとえば「平清宗胴塚」もそのひとつだ。武佐宿を歩いていると、「平家終焉の地」(平宗盛・清宗親子の胴塚)があった。ここ草津にも宗盛の子「清宗胴塚」がある。二人とも近江篠原の地で斬首され、首は京へ運ばれたのではなかったのか? 南草津の個人宅にも「清宗胴塚」がある。ブザーを押して、見学のお願いをした。
 お話を伺ったのは南草津病院会長の遠藤勉(86歳)さん。病院長や産業医など長年地域の医療につくした人だ。「野洲篠原の地に平家親子の胴塚がありましたが‥‥」とお聞きすると、「『平家物語』と『吾妻鏡』では記述がちがう。『吾妻鏡』では清宗は、この地で斬首されたと書かれています」と。清宗は元治元年(1185)6月21日斬首され、首は京都六条河原にてさらされている。
 遠藤宅は承応2年(1653)に近くの教善寺を建立したという旧家だ。屋敷の隅には、代々供養してきた胴塚と五輪塔がある。「平家の胴塚」にしても、当時の書き手の立場によって記述が異なっている。歴史の解釈はほんとうにむずかしい。かえりぎわ遠藤さんから『とりあえず第二集』(エッセイ集)をいただいた。
 もう4時をすぎてしまった。予約した宿(石山駅)まで、まだ何キロもある。天気は快晴で、瀬田唐橋から夕日を見たいと急ぎ足で歩く。だが唐橋到着のとき、あたりはすっかり暗くなってしまった。草津から三条大橋のルート記録は、ぜひHP「寄り道・東海道」もご覧ください。

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