慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国統一の一環として交通網の整備に着手した。江戸・日本橋を起点に五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)を整備した。これらの街道は幕府の道中奉行(宿駅や飛脚、道路・橋など道中に関することを総管)の管轄下におかれた。
中山道は五街道のひとつだが、その前身は「東山道」と呼ばれ、古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要な官道であった。
家康は、まず慶長6年に東海道、その翌年には中山道の整備に着手している。中山道は板橋から守山まで67次だが、一般にはゴールは京都になるので草津、大津をいれて69次といわれている。中山道69次の距離は135里22町(約535キロ)あり、東海道より約40キロ長い。
どちらも起点・終点は同じだが、中山道の宿場は東海道より16宿ほど多い。歩いての実感では、あっという間に次の宿場という例がある。例えば、塩名田から八幡は約2.7キロ。長いのは和田から下諏訪間の約23キロもあるが、4~5キロ歩くとすぐ宿場につくのも多い。
中山道は慶長7年(1602)に整備されはじめたが、最も遅く成立した宿場は新町(高崎市)で、承応2年(1653)であった。これは本庄と倉賀野の中間で「神流川の渡し」を控えていた。ちなみに本庄宿(埼玉県)の宿内人口は4554人(天保14年の中山道宿村大概帳)で中山道では最大であった。
中山道は碓氷峠、笠取峠、和田峠、塩尻峠、鳥居峠、馬籠峠、十三峠など峠が多い。とくに標高1531mの和田峠は旅人にとっては難所だ。海沿いの東海道とちがい中山道は山の中が多い。峠の山道は開発がすすまず、例えば岐阜県瑞浪市の4カ所の一里塚は両塚の原形を残している。