旅を終えて

 江戸時代の五街道のひとつ中山道の旅が終わった。東海道の旅を終えたのは2015年1月31日であった。それから数カ月後、体と足がむずむずして再び歩きたかった。歩くならば、同じ起点・終点の中山道にしようと迷うことなく決めた。
 東海道の旅は、太平洋(相模湾、駿河湾、遠州灘など)を眺めながら歩いた。晴れた日には富士山がくっきり、江戸時代には架橋や渡船も禁止された酒匂川、安部川、大井川などを渡った。箱根の石畳、舞阪宿、御油宿などの松並木も旅人にはよき思い出だ。
 今回の中山道の旅は、同じ日本橋から京都をめざすのだが、東海道とはおもむきが違う。まずぼくの故郷の埼玉県を歩く。何回か訪ねた町もある。群馬県を通り碓氷峠を越えて長野県に入る。平野から山間部を歩くというルートだ。
 中山道は東海道より約40km長い。だが江戸時代の旅人は、雨が降れば大井川などは川留めで川は渡れない。峠や山間部はきつくとも、中山道の場合は予定がたてやすい。とはいえ大名行列は街道のルートを勝手に変えることはできなかった。いまの新幹線や車社会とちがって、大方の旅人は自分の足で歩いた。
 中山道と東海道を歩いてみると、いくつか違いがわかる。なにごともそうだが、比較してみて、それぞれの特徴がよくわかる。感じた点をいくつか挙げてみよう。
  1. 中山道69次は「木曽路」に象徴されるように峠越えがたくさんある。東海道とちがって山のなかが多い。碓氷峠、笠取峠、和田峠、塩尻峠、馬籠峠、十三峠など、まさに山越えの旅であった。ほとんど人にも会わず、「クマ出没注意」の看板が目についた。
  2. 東海道53次とちがって、「一里塚」の原形が山中にはまだ残っている。東海道では5~6カ所しか一里塚の原形は残っていないが、たとえば岐阜県瑞浪市の山中だけでも4カ所が江戸時代のまま保存されている。
  3. 宿場の面影が残っている。奈良井宿、妻籠宿などにみられるように江戸時代の面影が色濃くみられる。上記のような旧宿場には外国人観光客が多くみられた。また山間部の建物には「出梁(だしばり)造り」と呼ばれる、二階が張り出た構造の民家が多くみられた。さらに滋賀県柏原、醒井などの「ベンガラ塗り」の家も印象的だ。
  4. 中山道の路傍には石仏石塔群が多くあった。庚申塔、二十三夜塔、道祖神、地蔵堂、馬頭観音などをよくみかけた。地域のさまざまな神様に人々は何を祈っていたのであろうか。
  5. 和宮降嫁(25日間)の大行列、水戸天狗党(常陸→中山道→敦賀)の足跡、壬申の乱、関ケ原合戦など多くの史跡にであった。中山道は67次(板橋宿から守山宿)だが、歩くとすぐに次の宿場に到着の印象がある。小さな宿場も多い。なぜだろうか。街道を歩いて疑問はのこる。これは宿題だ。
  6. 東海道と比較すると、中山道沿いにはビジネスホテルがほとんどない。日本はいま超高齢社会に入っている。とくに山間部は過疎化が進み、無人駅、ワンマンカーが走り、便数も減っている。
 とまれ、バス便を逃して途方にくれたとき車で宿近くまで送ってくれた人、道に迷い親切に案内してくれた地元の人など、今回の旅でも一期一会がたくさんあった。
 初めて「クマ除け鈴」をつけて山中を歩いたこと、樹齢1300年余の大杉を仰ぎみて、また江戸時代のままの山中の一里塚を次々とみて、深く感動したことも忘れられない。日本橋から京都まで中山道の距離は約535km、ぼくの寄り道した歩数計は約787kmになった。
 次回の旅はどこだろうか。五街道のうち日光道中(千住~鉢石)、奥州道中(宇都宮~白河)、甲州道中(内藤新宿~上諏訪)の三街道が残っている。健康であれば、残りの三街道踏破が目標だろうか。

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