用語集

中山道宿村大概帳

 江戸幕府の道中奉行が宿駅を調査した記録。本稿のなかに示された本陣・脇本陣、旅籠屋数などは、天保14年(1843)の調べである。「大概帳」には、宿石高、宿内町並みの長さ、家数、男女別の人数、本陣・脇本陣の坪数、旅籠屋の軒数、高札場数、問屋場数、人馬数、板橋・石橋の長さなどが調査されている。中山道宿村大概帳は、天保時代の宿駅状況を知るめやすになる。

一里塚

 一里塚は慶長9年(1604)に主要な街道に築かせた一里ごとの里程標。その起点は江戸・日本橋。一里(約3.97km)ごと築かれた両塚にはエノキ、松などが植えられた。塚の大きさは直径10m、高さは4mぐらい。その役割には、旅行者の便、運賃の目安、休憩所などがある。中山道は日本橋から草津まで129里10町(約508km)あったが、明治以降、民地や道路拡張などで塚は大部分が壊されている。一里塚跡には石碑、標柱などある所もあるが、不明な場所もある。東海道では原形に近い塚が残っているのは5~6カ所だったが、中山道の場合は開発が進まない山地に原形が残っている塚は意外と多い。例えば、岐阜県瑞浪市内の峠には、権現山、八瀬沢、奥之田、鴨之巣の4カ所の一里塚がほぼ完全に保存されている。

宿場

 中山道は慶長7年(1602)から板橋宿から守山宿までの67次が順次整備された。東海道と同じく宿場の大事な役割は人馬継立で、公用の荷物や書状など次の宿に迅速に運ぶことである。中山道の宿人馬は「50人・50疋」の規定がある。宿継ぎは伝馬朱印状、幕府発行の証文があると無賃になる。その対象は、公家・門跡衆、大阪御目付、巡見御用など23項目があるという。この業務を行うのが問屋場の役人だ。宿場のもうひとつの役割は旅人に対しての休泊施設の提供。宿場には、本陣、脇本陣、旅籠屋、商店などの町並みが形成された。中山道の宿場で最短の町並みは、わずか1町10間(約130m)の番場宿があった。

本陣

 大名、公家、勅使などが泊まる本陣は、門構え、玄関、上段の間がしつらえてあるのが特徴。江戸末期、東海道を利用した大名は146家、中山道は30家だったという。利用時期は3月、4月、5月が多い。本陣での休泊は予約制になっている。予約は約1年から50日前に行い、部屋割りのための屋敷絵図を提出した。休泊の数日前には宿役人と部屋割りや休泊料の確定、関札が本陣に渡された。当日は表門や玄関などに幕を張り、関札を掲げて準備を整えた。本陣は昼食、休憩にも利用された。例えば深谷宿の飯島本陣跡の案内板には「(年間)泊まり10件、休憩40件ほどでまことに少なく、為に本陣職の大半は他に主たる職業を務めた」と苦しい本陣経営にふれている。

福島関所

 木曽川に沿って冠木門から左坂に上がると福島関所跡がある。福島は木曽谷の中心部。この関所は、東海道の箱根、新居、中山道の碓井とともに天下の四大関所といわれた。福島関所は「関ケ原の戦い」で功があった山村家が代々関守をした。関所はとくに「入り鉄砲に出女」の取り調べに厳しかった。復元された福島関所には、鉄砲手形、女手形、女木札通行手形、女日帰り木札などが展示されている。関所の開閉は明け六つ、暮れ六つ(朝6時、夕6時頃)だが、大名の飛脚などは夜中の通行を許可した。徳川幕府が設置した関所は53カ所あったが、明治2年(1869)に廃止した。

白木改番所

 木曽山には木曽五木(ひのき、さわら、ねずこ、あすなろ、こうやまき)の美林がある。白木とは、材木を割って半製品にしたもので、曲げ物などの材料に用いられた。尾張藩(尾州)では材木はもとより白木に至るまで統制し、刻印のある物以外は木曽から出させなかった。馬籠宿近くの「一石栃白木改番所跡」の案内板に「番所は木曽から移出される木材を取り締るために設けられたもので、ひのきの小枝に至るまで、許可を示す刻印が焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であった」という。まさに木曽の森林資源は、尾張藩にとっては「木一本首ひとつ」の宝の山であった。白木改番所跡は大井宿(恵那市)、大湫宿(瑞浪市)にもある。なお木曽川筋には各所に「川番所」があった。

皇女和宮降嫁

 幕末の江戸は、日本近海には開港迫る外国船、安政の大獄、桜田門外の変など内憂外患で、幕府と朝廷との公武合体論が浮上した。仁孝天皇の第八皇女、孝明天皇の異母妹の和宮(満15歳)が第14代将軍徳川家茂に嫁ぐことになった。幕末混乱期の政略結婚だ。京の宮家や公家の姫君たちが将軍への輿入れはあったが、皇女は初めてだ。文久元年(1861)10月20日、京都を出発した和宮の行列は中山道を通って江戸にむかった。江戸到着は11月15日で、日数は25日間。大行列の随行者は、朝廷側1万人と幕府側1万6千人、本体通行に4~5日要したという。さらに各藩からの警固、人馬の大量動員などがあった。また道中奉行は事細かな沿道での禁止事項を通知した。

助郷制度

 宿場の重要な役割に幕府の公用荷物などを次の宿場に運ぶ継立業務がある。そのため東海道は宿場に「100人・100疋」、中山道は「50人・50疋」(原則)の人馬を常備するよう義務づけていた。参勤交代制度ができて交通量が増大すると、近隣の村々から人馬を集めた。この宿ごとに補助する村を定めたものを助郷制という。人馬提供は「定助郷」「宿付助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。宿場では人馬役をできるだけ助郷に転嫁するよう考えていた。そのため宿場と助郷との間で確執があった。村高100石につき人足二人、馬二疋の負担は農村にとって大きな負担となった。ちなみに「和宮降嫁」のとき、中山道から何十キロも離れている所沢周辺の村々に「当分助郷」で大宮宿などへ800人の人足提供の命令があったが、400人に減らさせている。

水戸天狗党

 天狗党は水戸藩の尊王攘夷派を指す。幕末の元治元年(1864)3月、天狗党は筑波山で挙兵して、当時京都にいた一橋慶喜の力を借り、朝廷に尊王攘夷を訴えることを決めた。11月天狗党は大子村(茨城県)を出発し、中山道を通って京都にむかった。彼らは幕府の討伐令を受け、各藩の討伐軍と合戦しながら信州に入った。だが岩村田藩と小諸藩とは一戦も交えず、望月宿へ。和田峠では高島藩・松本藩と交戦し双方とも10人前後の死者をだした。和田峠を越えたところに天狗党の「浪人塚」がある。天狗党約1千人余は美濃の鵜沼宿まで来たが、彦根藩や尾張藩などが街道を封鎖したため中山道を外れた。迂回して越前に入った天狗党は、頼みとした慶喜が討伐軍の指揮をとっていた。結果、12月天狗党は降伏し、斬首352人、島流し137人、水戸藩渡し130人の処分となった。

※この用語集は『近江の宿場町』(八杉淳著)、『南木曽町の歴史』(南木曽町博物館)、各自治体の教育委員会資料などを参考にした。なお、東海道ひとり旅でも用語解説をしているので参照されたい。 »東海道ひとり旅

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