2015年7月9日(木)下諏訪→塩尻へ 21.5km
諏訪大社下社春宮からスタートして下諏訪宿へ歩く。連子格子の伏見屋邸(歴史的風致形成建造物指定)、岩波家本陣跡、問屋場跡、脇本陣跡などが集中している。ここ下諏訪は甲州道中の終点(始点)で番屋跡もある。すぐ隣は諏訪大社の下社秋宮がある。幣拝殿、神楽殿など立派な建物がある。まずはお宮に参拝して旅の無事を祈った。
近くの下諏訪町立歴史民俗資料館に立ち寄った。資料館には、江戸時代の枕行灯、膳、木曽ひのき笠・みの、宿場の温泉場風景絵、旅籠屋の看板などが展示されている。また皇女和宮の降嫁行列絵、水戸天狗党行軍の経路図などをじっくり見学した。
中山道の標識にはびっくりするものがある。塀に沿って人がやっと通れる道に「中山道」という標識がある。右に曲がってすぐ左、そして右へと、いまはもうない「昔の中山道」に少しでも忠実に示そうとしているルートがあった。
静かな旧道を歩くと「旧渡辺家住宅」の矢印がみえてきた。路地に入ると渡辺家がある。渡辺家は高島藩に仕えた散居武士(城下町でなく在郷の村に住んだ藩士)で、現存する武士の家(18世紀中頃の建物)として全国的に珍しいという。道を歩いていると人家に新しい「双体道祖神」をみつけた。すぐ近くの火の見やぐらの下にも、古い「双体道祖神」があった。
塩尻峠の上り口に今井家の「小休本陣跡」(国登録文化財指定)がある。立派な門と広い屋敷にびっくりする。坂道を上ると「石船観音」の階段がみえてきた。一間ほどの社だが、なかには二体の石仏がある。このあたりから眼下に諏訪湖がみえる。
大岩を通りすぎると、坂道はだんだん険しくなる。なぜか足が重い。カサを杖代わりに「ヨイショ、ヨイショ」と心のなかでくりかえす。やっと塩尻峠の頂上(標高約千m)に到着した。小さな「富士浅間社」がある。「松本領・諏訪領との郡境の宮として石祠を奉祀した」という。展望台があるので上ってみた。この展望台から八ヶ岳連峰、日本アルプス、富士山が望める場所というが、あいにくの天気で眼下の岡谷市街地、諏訪湖しかみえなかった。この塩尻峠で、はじめて地図を片手に中山道を歩いている若者にであった。
難所の和田峠とちがい塩尻峠の下山は軽い気分になる。茶屋本陣跡、親子地蔵をみながら下りると左側にこんもりとした「東山一里塚」(塩尻市史跡)がある。またまた雨が降りはじめた。山の斜面に「牛馬守護神」という大きな碑がある。いつごろなのかはわからない。長野自動車道の橋上を渡ると民家がふえてきた。
首塚・胴塚の案内板があった。天文17年(1548)武田信玄軍と松本の小笠原長時軍が永井坂(柿沢)で衝突し、小笠原勢は大敗し多くの戦死者がでた。この亡骸を柿沢の村人が哀れに思い埋葬したのが首塚・胴塚。畑の中にこの塚はある。この柿沢地区の家並み、道沿いの庭木はほんとうに美しい。さぞや手入れは大変だろうと思う。
江戸から30番目の塩尻宿が近づいてきた。この宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒(1843年資料)で、旅籠数は中山道では二番目の多さだった。塩尻宿碑の手前で抱擁している双体道祖神をみつけた。別名「お女郎道祖神」と呼ばれている。また元旅籠の小野家住宅、陣屋跡の笑亀酒造、名主を務めた堀内家住宅などが残っている。どれも国の重要文化財で立派な建物だ。塩尻宿は文政11年(1828)と明治15年(1882)に大火にあっている。そのため宿並の多くが焼失している。
大門神社、耳塚神社に寄って、帰宅のためJR塩尻駅にむかった。次回は洗馬、本山、贄川、奈良井宿方面を歩く予定だ。
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