旅日記

2015年7月8日(水)和田→下諏訪へ 26.5km

 朝7時、昨日歩いた茶屋本陣まで民宿のご主人に車で送っていただいた。「すぐ近くに唐沢一里塚があります。ぜひみてください」といわれた。階段を上ると、そこには樹木は残っていないが、こんもりと51里目の両塚が原形をとどめている。この塚は中山道の一部路線変更で山中にとり残されたもので、天保2年(1831)の「絵図」ではすでに路線からはずれている。これは朝早くから感動だ。  山道への入口に「クマの出没注意」の張り紙が目についた。5月、6月にもクマ出没があったという張り紙を数カ所でみた。民宿で買った「クマよけ鈴」を靴に挟んで「チリン、チリン」と歩いた。クマよけ鈴は生まれて初めての経験だ。山道をどんどん上がっていく。途中、木橋が何か所かあった。「接待茶屋跡」がみえてきた。この茶屋は文政11年(1828)から中山道を旅する人に11月から3月まで粥とたき火、牛馬には桶一杯の煮麦を接待したという。  やがて粗末な避難小屋についた。ここからしばらく、でこぼこの石畳がつづく。52里目の広原一里塚がみえてきた。しばらく歩くと国道にぶつかる。東餅屋跡があり、案内板には「寛永年間よりこの地に五軒の茶屋」があったと記されていた。旧中山道はビーナスラインという国道を何回か横断して、急坂を上っていく。  やっと和田峠(標高1531m)の頂上に到着した。この峠の案内板には「古峠」と書かれていて、明治9年(1876)東餅屋から西餅屋へ下る新道が開通したため、この峠はほとんど通る人がなくなったという。頂上は冷気と雲がただよい、いまにも雨が降りそうで、のんびりと休憩する状況ではない。ただちに下山へ。  すぐに狭い曲がりくねった道がつづく。このあたりは「賽の河原七曲り」というそうだ。最初は、狭くとも通り道があるので気分は楽だった。やがて石小屋跡がみえてきた。峠近くは急坂で風雪のときは旅人も人馬も難渋した。そこで安政2年(1855)に人馬が避難できる石小屋の施設をつくった跡だ。  さて、ここまでは下山道はわかりやすかった。そのうち道がはっきりわからない。「歴史の道中山道」という白い杭棒を目印に下りて行った。だが枯れ枝でふさがれ、雨のなか、道はどこかもわからず、勘を頼りに下りていくしかなかった。途中ころんだりもした。まったく整備がされていない。やっと国道142号にでた。また中山道の道がある。西餅屋茶屋跡地にでた。この立場(人馬が休息する所)には四軒の茶屋があったという。  さらに国道を横断して中山道の道標がある。雨の中このルート(約700m)は崩れた石や崖道があり危険と判断して、遠回りだが国道を歩いた。ルートの出口も確認したが、ここからさらに何キロも国道を歩いた。この国道は大型トラックの往来が激しい。ずっと長い下り坂だが、水しぶきをあげて猛スピードで走りすぎていく。午後1時現在「只今気温17℃」を表示している。  国道をはずれて水戸天狗党の「浪人塚」に立ち寄った。元治元年(1864)11月、勤王の志をとげようと和田峠を越えてきた水戸浪士千人余と松本藩・高島藩(諏訪藩ともいう)の連合軍千人弱が戦った場所に水戸浪士の塚がある。戦闘の結果は松本・高島両藩軍は総崩れし、水戸浪士らはさらに西へ進軍していった。この時の水戸天狗党の戦死者は10人余、両藩は各4人だったという。  すでに午後1時半をすぎている。昼食休憩したいが雨の峠越えでは座る場所がない。やっと人家のある樋橋茶屋跡についた。この隣の「公会所」の軒下をお借りして持参のおにぎりを食べた。やっと休憩がとれた。このあたりは標高千mだ。54里目の一里塚がリサイクルセンター裏あたりにあるはずだが、なかなかわからなかった。復元された一里塚がひっそりと事業所裏にあった。  もう諏訪大社は近い。御柱祭につかう巨木を山から切り出し、社の四角に建てるために引き落とす「木落し坂」、その御柱を一旦しめかけ縄をかけて休ませる場所も見学した。さらに山之神の山中にある神仏碑には目をみはる石碑があった。  午後5時すぎ、諏訪大社下社春宮に到着。まずは難所の和田峠を無事越えられたことに感謝した。諏訪大社は「古事記」にでてくる古い神社だ。諏訪湖の南北に二社ずつ四カ所にわかれて鎮座するお宮。「万冶の石仏」を見学した後、下諏訪駅前の宿にむかった。

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