旅日記

2015年5月5日(火)日本橋→蕨へ 28.6km

 朝7時の東京・日本橋。きょうから埼玉、群馬、長野、岐阜、滋賀を通って京都へ歩く中山道ひとり旅がはじまる。連休中のため車が少なく、日本橋の真ん中に設置されている「日本国道路元標」の写真が撮れた。  ぼくは昨年(2014年)9月11日に日本橋から京都・三条大橋をめざして東海道を歩きはじめた。東海道も中山道もゴールは京都だが、中山道は北にむかって歩く。目的地は同じ方向だが、東海道とは逆方向で歩きはじめた。北上して京都にむかうのは妙な気分だ。今回のガイド本は『ちゃんと歩ける中山道六十九次』(八木牧夫著・山と渓谷社)。1日の歩いた距離は現地発・現地終了の歩数計(一歩67cm)で記録した。  連休中のため三越前は車も人通りも少ない。日本橋の高層ビルをすぎると、今川橋の跡碑、昌平橋の案内板をみて歩くと、やがて左に江戸時代の学問所・湯島聖堂、右に神田明神がみえてきた。鳥居前の「甘酒茶屋」の脇に細い道がある。距離はわずかだが、これが旧中山道の道だ。すぐに国道17号にでた。  本郷3丁目の本郷薬師や桜木神社を見学した後、赤門(御守殿門・1827年建立)につく。東京大学の敷地は加賀藩上屋敷があった所だ。農学部前の本郷追分(直進は日光御成道)を左折し旧白山通りへと歩く。途中、浄心寺坂にある円乗寺の「八百屋お七」の墓を訪ねた。放火の大罪で捕えられたお七は天和3年(1683)に火あぶりの刑に処せられた。品川の鈴ヶ森刑場には火炙り台の遺跡がある。  JR巣鴨駅がみえてきた。駅の手前左側には、最後の将軍・徳川慶喜が明治30年(1897)から4年間住んでいた屋敷跡があった。駅をすぎるとにぎやかな「巣鴨地蔵通商店街」がある。この商店街は「お年寄りの原宿」といわれている。江戸六地蔵のひとつがある真性寺、とげぬき地蔵(高岩寺)では高齢者が列をなしてお参りしていた。  商店街を通りすぎると、やがて左に新選組局長の近藤勇の墓所がある。すでに板橋宿に入ってきた。板橋宿は、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒、人口は2448人がいた(天保14年の「中山道宿村大概帳」より)。この板橋宿は飯盛女も多かった。いまの板橋宿は本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡などの碑があるだけだ。  板橋宿の北側には21万7千坪の加賀藩の下屋敷があった。ここは参勤交代途中の休憩や狩猟、散策などに利用されていた。石神井川にかかる板橋を渡ると、やがて国の史跡・志村一里塚に到着した。都内の一里塚は志村と北区西ヶ原の2ヶ所だけだという。  荒川(旧戸田川)の戸田橋を渡ると埼玉県。戸田橋近くの水神社、中山道戸田渡船場跡を見学したが、ここが渡船場跡とは想像がつかない。  戸田市をすぎると蕨宿の木戸(モニュメント)がみえてきた。蕨宿は本陣2軒、脇本陣 1軒、旅籠23軒という小さな宿場であった。ちなみに現代の蕨市は、全国一のミニ都市(面積5k㎡)で人口は7万余の市だ。中山道蕨宿には歴史民俗資料館があるが、残念ながら休館日であった。本陣跡、蕨城跡、和楽備神社などを見学して、中山道から約1km離れたJR蕨駅から帰宅した。

写真

地図・経路

エリア選択




TOP