旅日記

2015年5月6日(水)蕨→浦和→大宮へ 23.7km

 朝7時前に蕨駅をスタート。まず蕨宿にある三学院を訪ねた。学校のような名前だが、天正19年(1591)徳川家康より20石寄進の朱印状があり、歴代将軍から同様に保護されてきたお寺さんだ。境内には市指定文化財の子育て地蔵、六地蔵石仏、地蔵石仏(目やみ地蔵)がある。どれも江戸時代初期のものだ。庶民信仰なのか、目やみ地蔵の両目には味噌が塗られていた。  蕨宿をすぎると辻の一里塚の碑がある。さらにすすむと「関元屋商店」の古い建物がある。かつて材木商やよろず商い、米穀商いをしてきた。店先の井戸は「お助け井戸」と呼ばれ、関東大震災、東京大空襲で逃げてきた人々ののどをうるおしたという。  浦和駅近くに木々に囲まれた古い歴史がある調(つき)神社がある。神社には狛犬がよくみられるが、ここはウサギになっている。すぐ近くに中山道浦和宿の碑がある。左側には平安時代創建の玉蔵院、境内には入母屋造りの地蔵堂がある。浦和宿は本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒という小さな宿場であった。代々星野家が務めていた本陣跡はいま仲町公園になっている。いまの常盤公園あたりが、かつての鷹狩場だった。  北浦和駅近くになると「サッカーのまち浦和・We are Reds!」の旗がめだってきた。また「紅赤の発祥地」の案内板もある。明治31年(1898)浦和の農家の女性が紅色のおいしいサツマイモを発見し、関東一円にひろがったという。  さらに歩くとさいたま新都心がみえてきた。広い歩道に「火の玉不動尊」(寛政12年)と「お女郎地蔵」(天保6年)の供養塔がある。長い説明文が墨書きで板に書かれているがよく読めない。やがて「武蔵国一宮」の石碑、氷川神社一の鳥居がみえてきた。ここから神社まで約2kmの参道がつづく。当初この参道が古中山道だったという。鳥居の左側道路の大宮宿は本陣1軒、脇本陣9軒、旅籠25軒あったというが、いまやその面影はない。 氷川神社は何回か訪れたことがある。今回は裏参道口から氷川神社に参拝した。  中山道にもどり、大宮郵便局前に「大山道道標」がレストラン駐車場入口にあった。安政7年(1860)に建てられたこの石碑には「大山御岳山 よの 引又 かわ越道」とあり大山道への分岐点だったことがわかる。さらにすすむと左に元禄10年(1697)に建てられた「東大成庚申塔」がある。地元では耳や眼の病気の時にはダンゴを供えてお参りしたという。  路傍には江戸時代の庶民の願いを参拝する小さな神社、供養塔がひっそりとある。これらを見つけるのも歩き旅の楽しみといえる。きょうはJR宮原駅から帰宅した。

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