2015年8月19日(水)大井→大湫へ 16.7km
中山道の旅ではじめて名古屋まで新幹線を利用した。JR恵那駅を午前10時スタート。朝からジメジメして汗がでる。サッポロビールの古看板を掲げた店をすぎると、重厚な中野村庄屋の家(本酒屋)がある。門の横には通路の水を防ぐ「浸水防止壁」の碑がある。近くの中野観音堂に寄ってみた。鳥居前には多くの石仏石塔群があった。
恵那駅から2km先のJR踏切を横断すると、「是より西 十三峠」の碑がみえてきた。
しばらく石畳がつづく。小高い丘に岐阜県史跡の「伝西行塚」がある。平安時代末期の歌人・僧侶の西行は、諸国行脚の途中、この地で亡くなり、その供養の五輪塔だという。西行の供養塔は、全国にある弘法大師の井戸伝説と似ているな、と思う。
坂を上がると「槙ケ根一里塚」がある。ちなみに岐阜県内の中山道の一里塚は全部で32か所あったが、恵那市内の槙ケ根一里塚、これから歩く紅坂一里塚、瑞浪市内の権現山一里塚、八瀬沢一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚の4か所は両塚の原形を残しているという。峠の山道で開発が進まず、集中して一里塚が残った地域といえる。
十三峠とは大井宿から大湫(おおくて)までの三里半(約14km)だが、いくつアップダウンの峠があるのだろうか。「十三峠におまけが七つ」といわれたそうだから、20余りの峠だろうか。山道に下街道(名古屋方面)への分かれ道があった。ここには伊勢神宮遥拝所があった。「伊勢までの旅費や時間がない人は、ここで手を合わせて遥拝した」という。御嶽山遥拝所と同じだ。
長い峠道のため茶屋跡が何か所もあった。小高い丘に「姫御殿跡」の碑がある。中山道をとおる姫たちの仮休憩所ともいえる。また「首なし地蔵」の碑もある。首なしのいわれがていねいに説明されている。峠を越えると人家がみえてきた。四ツ谷集会所広場で持参のおにぎりで昼食休憩をした。
棚田には稲穂が実っている。竹折高札場跡をすぎると、ふたたび人家のない草道を歩きはじめた。坂を上がると、やがて「紅坂一里塚」(江戸から89里、京へ45里)がみえてきた。両塚が残り原形をとどめている。このような一里塚をみるとうれしい。わずか200m余だが石畳を残している。
峠を下ると、幕末に奉納された「三社灯籠」がある。よくみると「道中」ではなく、「洞中安全」とある。そのとなりには「佐倉宗五郎碑」がある。江戸前期の下総国(千葉県)佐倉の義民・惣五郎がなぜこの地で祀られているのかわからない。
復元された藤村高札場跡をすぎると「ちんちん石」の標識がある。あの「ちんちん」、と勘ぐって矢印の奥にいくと、そこは墓地。なんということはない、墓石の前に丸い石がおかれている。その台石をたたくと「チンチン」となる。それだけの話だった。「ばばが茶屋跡」を下ると急に明るくなる。
ふたたび「ヨイショ、ヨイショ」と坂道へ。両塚が残る「権現山一里塚」(江戸から90里)がみえてきた。やがて「十三峠の三十三所観音石窟」がある。この石窟には、道中安全を祈って天保11年(1840)に建設された33体の馬頭観音がある。この観音は馬持ちと近隣の村々からの寄進だ。
「山之神坂」を下ると、江戸から47番目の大湫(おおくて)宿がみえてきた。高台の宗晶寺に寄ってから宿場通りにでた。旧大湫小学校校庭には、皇女和宮が宿泊した本陣跡があった。脇本陣は部屋数19、別棟6という広大な建物だったが、いまは半分ほど壊されている。保々家が現在でも生活していて、国の登録文化財だ。神明神社の樹齢1300年といわれる大杉をあおぐ。すでに午後5時をすぎた。
ここから4キロ以上離れているJR釜戸駅近くの宿に連絡して迎えを頼んだ。きょうの十三峠越えは人にまったくあわなかった。あすは雨模様だ。さらに細久手宿、御嶽宿への長い峠越えがつづく。本降り雨の場合は無理をしないで中止の予定だ。
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