旅日記

2015年8月28日(金)大湫→細久手→御嵩へ 24.0km

 前回2泊3日の予定だったが、雨のため中止した。旅費をかけて「せっかくここまで来たのに」という思いはあったが、江戸時代の大井川の川留めと同じであきらめも肝心だ。恵那駅前で前泊して、釜戸駅から大湫宿(おおくて)の神明神社までタクシーをつかった。  神社にそびえたつ推定樹齢1300年の大杉を改めてじっくりながめた。幹回りは11mもあるという。大杉にはしめ縄がかけられている。近くに観音堂がある。現在の建物は弘化4年(1847)に再建されたものだ。「大湫に過ぎたるもの二つあり、神明社の大杉と観音堂」といわれた。  復元された高札場をすぎると、やがて琵琶峠の石畳の道に進む。琵琶峠は、美濃16宿で一番高いところにある峠(標高558m)で、長さは約1kmある。濡れている石畳はすべりやすい。この石畳は1970年に良好な状態で確認され、約700mが岐阜県の史跡に指定されている。  「八瀬沢一里塚」がみえてきた。両塚が残されている。塚は直径約10~11m、高さは4~5m。当時の面影を残しほぼ原形に近い。細道を下ると、弁財天の池がある。池には蓮の花が咲いていた。ふたたび一里塚がみえてきた。両塚を残している92里目の「奥之田一里塚」だ。三国見晴台をすぎると細久手宿(瑞浪市)がみえてきた。  細久手宿は中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嶽宿まで4里半もあり、長いので慶長15年(1610)に新設された。3回の大火があり、現在の町並みは安政5年(1858)の大火以降という。宿場の面影はほとんどないが、旧尾張藩定本陣の大黒屋(安政6年再建)はいまも旅館をつづけている。15代目の92歳の酒井房子さんから読んでね、と「晩秋の細久手宿」のエッセイをうけとった。  坂を下ると、「秋葉坂の三尊観音石窟」がある。石室には明和5年(1768)の馬頭観音立像など三つの石室がある。鴨之巣一里塚案内の標識には「クマ出没注意」の張り紙がある。このあたりにも熊出没かと思う。江戸へ93里、京へ41里の「鴨之巣一里塚」があった。両塚が残されている。  時刻は12時過ぎ、これできょうは原形が残された塚は、八瀬沢、奥之田、そして鴨之巣一里塚と三つもみられた。朝からわずか4時間で、時を感じる三つの感動があった。一つは樹齢1300年の大杉、二つめは700m余の石畳、三つめが原形の一里塚。70代の人生にしてこの感動・感激はとてもうれしい。  草道をとおりすぎると水田がみえてきた。さらに歩くと物見峠へ。皇女和宮一行が休憩した御殿場がある。ここからの展望はよいとのことだが、あいにくの曇り空。坂を下ると御嶽宿は近い。歌川広重が「御嶽宿」のモデルにした「木賃宿」がある。囲炉裏を囲んだ旅人たちのようすが描かれている。いまでもその建物がある。  謡坂石畳を下ると、近くに仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡があるはずだ。畑仕事をしている人に聞くと「マリア様は、すぐそこだ」と返事する。15分ぐらい歩いてやっとついた。道路工事による五輪塔移転で、十字架を彫った自然石が発見されたという。  中山道に戻り、「牛の鼻欠け坂」という急坂を下りる。やがて道路脇に「和泉式部廟所」 の看板がある。彼女は平安時代の紫式部と同時代の歌人だ。碑には「東山道をたどる途中、寛仁3年(1019)に病に侵されこの地で没した」とあるが、これらの遺跡・逸話は全国に存在しているようだ。  江戸から49番目の御嶽宿(御嵩町)に入ってきた。ここは本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒(1843年資料)があった。明治10年頃の建築「商家竹屋」、おもてなしの「わいわい館」に寄ってみた。御嵩町の歴史と文化がわかる「みたけ館」は休館日だった。9世紀に創建されたという隣の願興寺を訪ねた。  このお寺さんは国・岐阜県の重要文化財などが多くある。だが、本堂の屋根はさびて赤茶け、どうみても豊かな寺にはみえない。寛文10年(1670)の鐘楼門もある。すでに午後5時半をすぎた。名鉄広見線御嵩駅から美濃太田駅近くの宿にむかう。

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